第3章
一
人の一生ほど儚いものはない。花とか動物ならば心を和ませたり、感動を与えたりして存在価値がある。人間は何にもない。傲慢で己の欲望のみに生きている。地球環境を汚し、限りある資源を食いつぶし明日なき世界へ破滅の道をひた走る。美しい自然なんか欲望の前には目に入らない。欲望のない人間はその存在すら否定される。欲望があるからこそ人間は生きていけるのかもしれない。
人生のうちで欲望もなく純粋に生きていられるのは十三才から十五才の中学生時代だけだといっても過言ではない。でも幸治は違っていた。既に周囲の環境から欲望の蠢く渦中に巻き込まれていた。どちらかと言えば弱者の味方の弁護士よりも不正を許さず真実を追究する検事の方が何事にも厳しい幸治には向いているのかもしれない。幸治は幸治なりに自分の性格に合った将来の事を考えているのだ。明子はそれが嬉しく我が子ながら頼もしくもあったが十三才にしては余りにませ過ぎているようにも思え何処か不安な面もあった。
その不安を取り除くように無学な明子は幸治をひしと我が胸に抱きしめ溺愛した。普通ならば幸治ぐらいの年齢になれば母親の溺愛は鬱陶しく閉口し逃げ出すものだが幸治は違っていた。むしろ母親に抱かれることを望み自ら抱かれることに喜びを抱き快感を感じていた。柔らかい胸に抱かれてうっとりと夢心地になっていた。それは傍目には仲睦まじく写る反面何か嫌らしくおぞましく見えることもあった。父親が早くから家に寄りつかず父親代わりをしてきたことも起因しているようであったが、何よりも明子が小柄で可愛く幸治と年齢差がないということが母親ではなく無意識のうちに一人の女として感じていたのかもしれない。
そんな事とは露知らず明子は直ぐに切れる父親の血を引く幸治が可哀想でもあり不安でもあった。その不安を取り除くには溺愛するしか方法を知らなかった。それは益々幸治を苛立たせ快感を貪る危険性を孕んでいた。
母親を奪おうとする健介に敵対心が芽生え口に出して云えないもどかしさが幸治をかたくなに健介を拒否しているように見えた。
「幸治、母さんねあんたが健介さんを嫌っているのはわかるのよ。でも何故嫌っているのか解らないの。ねえ何故なの」
「あいつは真二やお爺ちゃんの事でいろいろやってくれたかもしれない。でもそれはあいつの仕事なんだ。愛情でもなんでもない。僕にもようわからんがあいつの目的は何なんだ。貧乏な我が家にお金があるわけもなく、金目的でもなさそうだし何か不気味なんだ。母上しっかりしてよ。冷静に考えてみてよ。あんな口先だけで人を騙すような男の何処がいいんだ」
冷静に考えなくても幸治の云う通りなのかも知れない。そんな不安は明子の胸の奥底に蟠っていないと言えば嘘になる。明子はその不安を常に胸の奥へ奥へと閉じ込め見ないように努めて来たのは事実だ。でもそれを幸治から指摘されると余計に否定せざるを得なくなった。
「お金もないこんな子供が二人もいるおばさんに結婚してくれって言う? 普通は言わないわよね。結婚ってもっと神聖なものでしょう。母さんは健介さんを信じてるの」
「信じるのは勝手だよ。でも僕たち子供を巻き込まないでよね」
どこまでいっても堂々巡りで明子と幸治の妥協点はなかった。
「葉子はね、健介さんのこと好きみたいよ。葉子と母さんが健介さんの所へ行けば幸治はどうするの」
須磨の海岸へ行ったとき葉子は幸治が見ていても呆れるほど波打ち際で健介と戯れはしゃいでいた。真夏の太陽の光りをイッパイに浴びて本当の父娘以上の何か異常な関係に幸治には感じられたのを目の当たりにしていた。葉子は五年生、母親と違って体格がよくもう初潮が始まっていてもおかしくない。もう一人の女性として新しい若い父親というより格好いい恋人のように感じたのだろうか。だとすれば葉子は母親と一緒に健介のマンションに喜んで行くに違いない。幸治は何とか葉子を行かないように言い包める方法はないものかと思案したが咄嗟には妙案が浮かばなかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんオシッコ!」
小さい時からまるで母親のようにおしめを換えたり、パンツを脱がせて便所まで連れて行ってやったりお風呂に一緒に入り頭から足の先まで洗ってやった。祖父母は病院へ行ったきりだし、母親はパートで大人が一人もいなかった昼間は家庭が暗く不安が襲い掛かってきたのだろう一日中葉子は幸治にくっついて手を焼かせていた。何処へ行くにも手を引いて二人は恋人のように育った。そんな葉子が急変し幸治を避けよう避けようとしていた。
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