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人間はいろんな夢を見る。
それが嫌な夢ばかりだと、やがてその人の見る夢は、
あちこち虫食いの穴だらけになってしまう。
そして全部食いつくされると、もう二度と夢を見ることができなくなるのだ。
苦しい夢を見なくてすむかわりに。楽しい夢をみることもなくなる。
その人にとって、眠りはただ意識をなくすだけの、
暗闇の時間帯でしかなくなってしまう。
(夢虫 増田みず子)
無断転載厳禁
夢虫というのは、夢の中だけに住んでいる虫だ。
その虫がどんな姿をしているかは、誰も見たことがない。
夢の中に住んではいても、夢の中に現れてくることはないからだ。
人間が楽しい夢を見ている間は、
夢虫も心地よいのでおとなしくしている。
だから夢虫は子供が好きだ。
ところが、人間がいわゆる悪夢を見るような年頃に成長すると、
夢虫はもぞもぞと動き出してくる。
悪夢が続くと、嫌がって、その夢を食べるようになる。
もしかすると木瓜の花の、
とくに淡紅色の蝋引きしたような質感のある花びらに、
秀夫は自分の好みの少女を連想したのかもしれなかった。
自分でも薄々とそれは感じていた。
頬を染めてふっくらとした自分の胸を抱きしめ、
ひたむきに何かを思いつめている少女のような雰囲気を、
木瓜は確かに持っている、と今でも思う。
この世に一人くらい、自分のことを知ってくれる
人がいてもいい、と思った。一度くらい
全部話してもいいではないか。
人にぶっつかって跳ね返ってくる自分の言葉など、
聞きたくない。
口を封じ、耳を封じ、胸を閉じて、どこかへ行ってしまうだろう。
有賀が言葉を吸い取ってくれる今のうちに、この大切な時間を、
体の中に溜めておかなければならない。
そうすれば、あとは、どこへ行っても、それを思い出しながら、
生きていくことができそうだった。
彼がわたしを軽蔑するほど、
わたしは悲しみ、悔しがり、憤り、そして安堵した。
軽蔑して、軽蔑して、わたしを棄てればいい。
そうすれば、わたしはまた一人になる。
心の底で、自虐的にそう思っていた。
そしてついに彼から、あきらめた、といわれた時、
わたしはすとんと自分が安定したのを感じた。
だがそれは、空虚で侘しい安定感だった。
(わたし 坂東真砂子)
結婚などというのは、女にとってすべてつらく苦しいものです。
けれども世の女たちは皆そのことを隠している。
不幸な人妻がみじめなのではない。
みじめなのは不幸なことを世の中に知られてしまう人妻だ。
さらにおぞましいのは、
不幸なことを大声で云いたてる女なのだ。
(白蓮れんれん 林真理子)
一時は離婚話まで出ていた夫婦に何とか妥協点が見つかり、
ようやく愛情らしきものが芽生えようとしていた。
仲直りの夫婦が当然そうするように、
伝右衛門は夜毎妻を愛するようになった。
ところがどうしたことか、
あき子の身体はぴったりと閉じられたままだ。
長いこと夫に裏切られたことを心を許しても、
あき子の身体はまだなじり続けている。
女を憤怒させるのは嘲りや侮蔑ではない。
それは同情なのだ。
嫌悪や嘲りや侮蔑には、まだ相手が
同じ場所に立っていることを認める気持ちがある。
けれども同情の視線は常に下に向けられている。
憐れまれる人間はそこよりも低い場所に立っていると
見なされているからだ。
結婚というものは女にとって、
もともとつらく苦しいものですよ。
周りを見渡しても、結婚して幸せに暮らしている
女などいるものでしょうか。もちろん私を含めてだけれど、
と兄嫁は二人きりの時にこっそりと云ったものだ。
だから少しでも楽になる方法を考えなくてはいけないの。
お金はその大きな要素であろうよ。
お金があれば女はたいていのことが慰められるのですよ。
今、人の妻となった麻也子の言葉を熱心に聴いてくれる者はほとんどいない。
野村も最初のうちこそは、会話を楽しんでいるような素振りをみせていたが、
今は早くホテルの部屋へ行くことばかり考えている。それは欲望のためというよりは、
時間の節約のためだ。気が付くと、麻也子のさまざまの言葉は、
空中に放たれることなく、身体に戻ることが多くなっていく。
それは発酵して、ぶくぶくと嫌なにおいの泡を立てているようだ。
(不機嫌な果実 林真理子)
つまり夫は、麻也子が持っている幸福を味わっていないのだ。
いくら結婚をしていても、他の異性に心を燃やし、抱かれたいと願う。
そしてそれがかなった時の満足感と、肉体の充足。
航一はこうしたものと無縁で、一生を過ごしていくのだ。
麻也子は自分だけ、
この喜びを知っていることに後ろめたさを感じ始めている。
しかし夫に勧めることは出来ない喜びだ。
結婚してからというもの、麻也子は正月が大嫌いになった。
毎年泊りがけで彼の実家ですごさなくてはならないからである。
地方にあるわけでもない、大晦日の真夜中にそばをすすり、
元旦の早朝に皆で祝い膳を囲む。このスケジュールをこなすために
麻也子は夫の実家という、
東京で一番楽しくない場所に一泊しなければならないのだ。
正月に聞く姑の言葉は、すべて癇にさわる。
昔に比べて、今の嫁というのはなんと幸せだろうかという思いを、
そっと舌の裏側にひそませているからだ。
新しい男ではなく、昔の男とフグを食べたら、
それはもう半分寝たことになるのではないだろか。
別れたけれど、その男とまた寝たい、
と思うことほど自堕落なものはない。
そして自堕落なことぐらい甘いものはない。
その甘さこそは自分がとても欲しいものなのだと、
麻也子はなぞなぞの答えを見つけたように頷く。
せいぜい月に一度会えばよい。
会ってセックスしたらそれで充分である。
麻也子は性の快楽を求めているのではない。
夫以外の男から渇仰され、
求められたという事実だけで、
あとの残りの日々を機嫌よく暮らせるような気がする。
半分ハゲで半分白髪のおっさんよね。
でもホテルで抱き合っているときは、もうドラマよ。
運命っていう言葉が私の頭の中でぐるぐるまわり出した。
私、あのおっさんに夢中になったわ。
本当のことをいうとさ、おっさんも私と結婚しようって言ってくれた。
それなのにどうして結婚もしないで別れたかって。
それはね、おっさんの奥さんが原因よ。
いろんな嫌がらせが始まるのよ。
それにうんざりしたり、嫌気がさしたらもう終わりよ。
私なんかこれに負けたって思ってるの。
無断転載厳禁、
私って本当はついていない人間なんじゃないだろうか。
その問いが執拗になってくる時は、
麻也子は夫に対して、小さな仕返しをいくつかする。
たとえば夜のおかずを一品少なくする、
シチューはレトルトを使うといったささいなものが、
それでも仕返しをするとしないとではだいぶ気分が違う。
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追いつめられて死んではいけない。
成すべきことは成した、もう十分に生きた。
自分の人生は自分の手で閉じよう、
そう考えての自死なら許されるような気がする。
「本当に有難う。お世話になりました。そろそろさよならします。
私なりに充分に生きました。この世は生きるに価するものでした。
満足しています」
(妖しい風景 髙樹のぶ子)
<自由ってものを過大評価してるんじゃないか?自由ってのは、
そのむこうに目的がなくては、ただの娯楽でしかないよ>
「クロッシング・ガード」という映画の中のセリフである。
刑期を終えて出所したものの、生きる目的を見失った男の、
寂しい呟きだったろうか。
自由になったが目的が定まらない。
現代の多くの人間、とりわけ若い人たちに通じる気がしたのだ。
自由という言葉が、輝かしい勢いに満ちていた時代が
ついこの前まではあったのだが。
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波音が鮮明なのに、池の水は微動だにしない。
百年このかた、あるいは五百年このかた、
ひょっとすると千年ほども微動だにしなかったのでは
ないかと思えるほど静まり澱んでいた。
だから、散った花びらも少しも動かないのだ。
自分の身体の中に自分の心が丁度、
頃合いの大きさで納まっている感じがした。
(豆畑の昼 中沢けい)
和子にとっての透明な朝である。
生きているつらさを、ほんのりと感じだしたのは、
あんな健康な朝がおとずれるようになったためではないか?
死んでいくつらさではない。
生きていくつらさである。
未知子は、物心ついてからこれまで、父親知らずの片親育ちであるということに、格別の恨みを持ったこともなければ、父恋しと切実に感じた記憶もない。それなのに、どこかで父に似た異性を求めているということになる。
(写真一枚見たこともないのに)
未知子は、それが不思議でもあり、不気味でもあった。
(未知子 諸井薫)
『私、彼を愛しているの。こんなに好きになった人ははじめてなの』
照世は怯えたように柄美子を見返したまま、はらはらと涙をこぼした。
勝てなかった。
いつだって『愛』に目がくらんだ者には勝てはしない。
ふたたび激しい食欲に襲われてきた。
なんだか、食べても、食べても、
空腹感がいやされそうにない五月も末の夜だった。
(ひとりぐらし 藤堂志津子)
東京に来て初めて、自分から家族を捨てたことを、
村から脱出したことを後悔したのだった。
吹っ切ったつもりでも、
心の底にはまだそんな気持ちが潜んでいる。
カスミは自分に腹立たしさを感じると同時に、
寂しくて堪らなかった。
柔らかな頬 桐野夏生
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「佐藤愛子を今のうちに結婚させてしまいたいんや。
僕らの老後の平安のためにやね、誰かに彼女を押し付ける必要がある」
「それはいい考えのようだがねえ」
北杜夫は口ごもった。
「相手がねえ……いますかねえ……」
「なんかいるやろ……探したら……」
遠藤周作が俄かに夢醒めたる人のごとく、
「君、おらんのかいな。一人ぐらいは。候補者は」
(これが佐藤愛子だ 佐藤愛子)
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知性も教養もない、
どこかしら野卑なところのある
男性が好みだからではない。
といっても、人前に連れ出すには、
気が引ける男たちであったのも事実だ。
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男たちからちやほやされたり、
ロマンチックな雰囲気たっぷりのデートなどは、
どうでもよかった。
つきあう男もひとりいれば十分で、
浮気心が起きたこともない。
ひとりの男とじっくりかかわるのが好きなのだ。
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